「おさよの人柱」
薙野 敏光文
 

「去年も、わしのイネは全部流されてしもうた。」「ああ、この川にわしらは泣いたことじゃろうか。」心配顔の村人たちの話はいつも決まっていました。「大水は、かならずとまる・・・・。」とつぜんの声におどろいてふりむくと、いつのまに来たのか、見知らぬ老人の姿がうつりました。よく見るとまっしろのヒゲはのびほうだいで、真っ黒に日焼けした顔の中に目が鋭く光っていました。よごれたきものはすり切れ、そのすそは地面にまでたれさがっていました。「桂川を止めて、せきを作ってみよ。大水はきっととまる・・・・。」老人はひとこといいのこすと、夕やみの中にさりました。老人のことばは、村人たちののうてんに重くひびきました。村人たちは、フクロウの鳴く川原にしゃがみこんで、老人のいいのこしたことを手がかりに相談しました。

 三日後に工事が始まりました。おとなたちはもちろん、子どもやとしよりまでかり出され、村は総出になりました。そして、昼は暑さの中で、夜はかがり火をたよりに、空たわらに土や石をつめて列を作って川に投げ込みました。
 二日間の作業で桂川の流れはようやく止まりました。暗がりの小道を村人たちがつかれた足をひきずって帰りました。 ところがどうしたことでしょう。次の日の夜明け前、村人たちは早鐘の音に起こされました。みんなは桂川まで走っていくと気落ちした顔で川底を見下ろしました。あせを流してつくりあげた土俵は見るかげも無く、水が高く流れていました。村人たちはもう一度水とのたたかいにいどみました。しかし、桂川に水は前と同じく一晩しか止まりませんでした。村人がすっかりあきらめてしまったある日、あの老人がふたたびあらわれました。老人は静かに口をひらきました。「お前さんたちの努力が実らないのはみな神様のおぼしめしだからしかたなかろう。しかし、ひとつだけすくわれる道がある。それは、六歳から十二歳までの女の子を一人、生きながら俵につめて流れに投げ込むのじゃ。これがただひとつの救いじゃ。」みんなはだまりこんでしまいました。 
 
 その夜から、村人たちの心は暗くしずんでいきました。どうしてわしの娘を水底にしずめることができようか。どんなことがあっても娘のとうとい命にゃかえられねえ。この村のはずれに、小さなわらぶきの家がぽつんと一けん立っていました。どろかべは落ちかけ、雨戸はやぶれていてみるからに貧しい百姓家でした。それは、正直者の吉兵衛の住まいでした。吉兵衛には、「おさよ」というひとり娘がいました。まだ九つになったばかりだというのに、背はすらりと高く、長い髪は美しく、見つめるひとみはいつもすんでいました。「吉兵衛どんにはすぎた娘じゃのう。」村人たちはそういって、おさよをわが子のようにかわいがりました。貧しい吉兵衛夫婦にはおさよの成長がただひとつの望みでありました。あの老人がさって十日もすぎたころ、へんなうわさが村人のあいだに流れました。「神様のおぼしめしなら、村じゅうでいちばんのきりょうよしのおさよかな。」 そして、そのうわさは、「おさよは、水底にしずむ決心をしたげな。吉兵衛どんもその気になったげな。」と、かわりました。吉兵衛夫婦はおどろいておさよにたずねました。おさよはすんだひとみでこっくりとうなずきました。「おさよ、そればっかりはやめちくれ。残されたわたしたちはそんなためにお前をそだててきたんじゃなか。」吉兵衛夫婦は、毎晩毎晩手を合わせてたのみました。

 三たび、佐田川をせき止める日が来ました。それはおさよが永遠にしずむ日でもありました。朝、暗いうちから、村人たちは川岸に集まりました。みんなの顔はゆがみ、口もとはこきざみにふるえています。「ああ、おさよがあわれだ。」だれからとなく、ため息のような声がもれました。いつ来たのか、あの老人が岸べに立っています。ゆっくりとおさよに近づくと、そっと頭をなでました。「おお、感心な娘じゃ。お前は今にしあわせにめぐりあうじゃろう。感心なむすめじゃ。」工事はじめの合図がありました。おさよのからだは俵につめられ、水音をたててしずんでいきます。村の女たちは両手を合わせて泣き、水底をにらむ男たちの目からはなみだがこぼれています。朝日が水面を赤く照らしました。

 六日たちました。大きなせきが完成し、水面を通すために投げ込んだ土俵を取り出す日になりました。たくさんの土俵のいちばん下から、おさよの入った俵がひきあげられた時、村人たちは息をのんで見守りました。どこからともなくあらわれた老人がおさよのからだをだきあげ、しわだらけの手でゆっくりと、顔、胸、足をなでおろしました。そのしゅん間、おさよの目が静かに開いたのです。村人たちは自分の目を疑いました。しかし、六日前にしずんだおさよが美しいすがたで村人たちの前に立っていました。「おさよが生きかえった。」「神様のおぼしめしでおさよが生き返ったぞ。」いっせいによろこびの声がわきあがりました。その声は川面をわたり、むこう岸の森にこだましました。この話が国じゅうに広まり、おさよと吉兵衛夫婦は筑後の国の殿様にめされ、幸せにくらしました。』


 本当かうそかよく分からない話ですが、堰が作られた地方には、よく残っている話です。よく見ると、『堰』という漢字には、中に女という字が入っているので、堰作りには、女の子が生き埋めにされた歴史があるのかもしれません。このように、筑後川を治めるために、私達の先人たちは、命をかけた血みどろの戦いを続けて来たのです。用水路を見てもごはんを食べても、そのような苦労のことなどあまり思いつつかないものです。この平和な筑後地方も、一日で出来上がったのではありません。何百年もかけて、用水路がととのえられてきました。その、努力なくしては筑後地方の米倉としての地位はなかったことでしょう。私達筑後平野にすごす者がそのことを知らずにいることは、御先祖様に申しわけないことにちがいありません。